飼い主になった少女
●ヨハネ10・27-30
カトリック下館教会司祭 本間研二
ミサが終わり、司祭館でホッとくつろいでいた日曜日の午後、電話のベルが鳴った。教会から帰っていったばかりのサチヨからだ。震える声で「子猫が車にひかれたの。誰も助けてくれないの。死んじゃうから来て。早く、早く来て」・・・状況を呑み込めないまま車を走らせて現場まで行くと、道路の端にしゃがみこんだサチヨの足もとで傷を負った子猫が弱々しく鳴いている。車のバンパーで跳ね飛ばされ身体を強く打ったようだ。一刻も早く獣医さんに診てもらわねばとサチヨと子猫を車に乗せ、近くの動物病院へと急ぐ。だが日曜の病院はどこも休みでいくら呼び鈴を押しても誰も出てこない。2軒目も3軒目も誰もいない。車の中ではサチヨが子猫の背中をさすりながらオロオロと見守っている。ようやく見つけた病院で事情を話し診てもらった。治療の甲斐があり、幸い命は助かりそうだ。しばらくすると薬が効いてきたのか子猫はスヤスヤと眠り始めた。その姿を見たサチヨが、安堵からか涙をポロポロ流しながら泣いている。
サチヨは少しツッパッテいる中学生でミサには来るが、いつも斜に構えている。男の子とケンカもするし、学校の先生たちからの覚えもそれほど良くはないと聞く。そのサチヨが怪我をした子猫を道路の端まで運び、道行く人に必死に助けを求めたのだ。だが誰も手を貸してはくれなかった。切羽詰まった思いで教会に電話をしたのだろう。
一匹の子猫のために恥も外聞もなく道行く人に助けを求めたとき、不安と心細さで胸は張り裂けそうだったに違いない。でも震える子猫に寄り添うことをやめなかったサチヨ。一命を取り留めた子猫を抱きかかえ、安堵のあまり泣き出したサチヨ。そんな姿を聖書の中で見たような気がする。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。・・・わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる」。
聖書は、1匹の迷える羊を命がけで追い求める「羊飼い」がいることを伝える。その飼い主は100匹の羊がいても1匹を見失ったとしたら99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すため探し回るというのだ。
たった1匹のために危険を冒して探しに行くなんて理に合わないと諭す人がいたに違いない。でもこの「飼い主」は、はぐれた1匹の命も自分には大切な宝なのだと譲らない。私たちに危機がせまり絶望の淵で震えおののいていたらどうだろう。迷うことなく聖書は断言する・・・神にとって大切なのは「命の量」ではなく「一つひとつの命なのだ」と。
サチヨは、子猫を置き去りにしなかった。見捨てることなく見守り「一つの命」のために肩を震わせて泣いた。その姿は美しかった。
そして今、道端で震えながら泣いていた子猫は、サチヨという「飼い主」のもとでノンビリと過ごしている。あの猫になんという名前を付けたのか、まだ聞いてはいない。