愛が生まれるとき
カトリック下館教会司祭 本間研二
●マタイ21.28-32
聖書を生んだイスラエル地方には、2つの大きな湖がある。一つはガリラヤ湖、北方からヨルダン川の水が流れ込み、たくさんの魚が棲み、両岸には多くの樹木が茂り、花々が咲き誇り、多くの鳥や動物たちが集って来る。そして湖に注ぎ込まれた水は、またヨルダン川となって南へと流れ出て行く。
もう一つの死海は、海抜マイナス423メートルと地球上で最も低い場所にある湖であり、ヨルダン川からの水は受け入れるが、その水が流れ出て行く川を持たない。それゆえ塩分が濃く魚は棲まず、辺り一面は荒れ野で生き物もいない。
イスラエルの人々は、古来よりこの2つの湖から教訓を与えられてきた。ガリラヤ湖は、いつも受け入れた分だけ与える。だからいつも生き生きと豊かな実りをもたらす。他方の死海は、すべてを自分だけのものにしてしまうから死んだ湖となる。
人も同じで、受けたものを惜しまずに与えた時、生き生きと輝くが、全部を自分のものとして、恵みの流れをせき止めた時、濁り、停滞し、誰も寄り付かない屍となる。
私は時々、圧迫された息苦しさを感じる時がある。言いようのない寂しさ、死んだ人間のようになる時がある。そんな時に自分を省みると、たいがい与える事を忘れている。物もお金も時間もすべてを自分の物にしようとしている。もちろん全部を自分のものにしても誰も文句は言わない。しかし、人間は全部自分のものにしようとすると、なぜか死海のように心が滅んでしまうのだ。
すべてを与えて下さる神を信じ、隣人にささげてみようか。物、お金、時間・・・簡単なことではない。でも最も大きな贈り物とは何だろう。
何年か前、私が教会で大きな問題にぶつかり悩んでいた時、一人の先輩の神父さんが訪ねて来てくれた。一緒に夕食を食べながら、問わず語りのように自分の生い立ちや、神父になってからのエピソードを語ってくれた。貧しかった子どもの頃、着ている服をばかにされ、いじめられたこと。勉強が嫌いで学生時代は苦労したこと。神父になってからも何度も挫折し、夜中に一人で行く当てもなく車を走らせたこと。とつとつと語る言葉は自分を誇る武勇伝でも自慢話でもなく、できるならば隠しておきたい恥ずかしく、切ない痛みの歴史だった。
話しを聞きながら、私の心に温かい光が差し込んできた。きっとそれは、弱い自分の過去を赤裸々に語る彼の言葉に、温かな愛を感じたからに違いない。彼は自分の生の姿を現すことで、私を励ましてくれたのだ。
生の姿をさらけ出すことは怖い作業だ。もしかしたら軽蔑され、傷つくかもしれない。だから私たちはいつも恰好つけた言葉でごまかしている。でもありのままの姿こそが人を励ます力となる。
神が与えたいと思っているものを受けるためには、まずささげねばならない。恐れと不安と弱さの中にたたずむた自分を、勇気をもってささげねばならない。きっとその時に、愛は生まれるのだ。