イエスのまなざし

 カトリック下館教会司祭 本間研二

 ●ルカ7.36-8.3

 山口県長門市にある「金子みすゞ記念館」へ行ったのはコロナウイルスが蔓延する前である。
1930年に26歳で亡くなったみすゞだが、その作品は今でも色あせることなく多くの人々に愛されている。こんな詩がある。

朝焼け 小焼けだ 大漁だ
大羽鰯(おおばいわし)の大漁だ。
浜は祭りのようだけど
海のなかでは何万の 
鰯(いわし)のとむらいするだろう。

 家から近い浜でみすゞは、漁から帰って来た漁船を見ていたのだろう。港にはたくさんの鰯(いわし)が水揚げされ、大漁を喜ぶ人々で溢(あふ)れていた。その光景を見ていたみすゞだが、彼女の眼は祭りのように賑(にぎ)わう浜だけではなく、海の底へと向けられる。そこには親や兄弟、そして友を失った多くの鰯(いわし)たちの悲しみの光景が広がっていた。みすゞにはそれがはっきりと見えたのだ。
 
 目の前にあるものを見ることは誰にでも出来る。しかし、見えているものの背後に広がる世界に思いを馳(は)せるのは容易に出来ることではない。そんな眼こそが、私たち信仰者も持たねばならぬ眼なのだろう。

 長く幼稚園の仕事に携わって来たが、初めの頃は子供への接し方が分からず何度も失敗を重ねた。
 ある朝いつも元気に「おはよう!」と登園するさとる君が、無言で不機嫌そうにバスから降りて来た。気になった私はさとる君を追いかけて「さとる君、どうしてあいさつしないの、どうして笑顔じゃないの」と詰め寄るように問いただした。しかし、さとる君は憂鬱そうな顔のまま私の前を去って行った。それを見ていたベテランの先生が後から諭してくれた。「さとる君はもしかしたら体調が悪いのかもしれないし、朝お母さんに叱られて落ち込んでいるかもしれませんし、昨日友達と喧嘩してその子に会うのが辛いのかもしれませんね。・・・。神父様、目に見える子供の姿だけを見て、その子の背後にある思いを見ようとしなければ、本当にその子を見たとは言えないんですよ」と。
私はさとる君の目に見える姿だけを見て、背後に広がるさとる君の心を見ようとしなかったのだ。

 イエスならばどうだろう。
ある日イエスの元に一人の罪深い女が来て「泣きながらイエスの後ろから、その足元に近寄り、涙で足を濡らし始め、自分の髪の毛でふき、その足に接吻して、香油を塗った」(ルカ7.38)。
 当時の罪人とは、存在そのものが不浄であり、その不浄は触れたものにまで及び、人々は罪人に近づくことさえも忌み嫌っていたと言う。社会から弾き出された女は、汚物でも見るかのような人々の冷たい視線を浴びながら生きて来たのだろう。そんな彼女が勇気を持ってイエスの元へ来たのだ。女は何も言えず、ただ涙だけが頬を濡らした。しかしイエスにはそれだけで充分だった。イエスはその姿から女が今日まで一人で生きて来た孤独と切なさ、人々に蔑まれ排斥されてきた辛さと悔しさを瞬時に悟ったのだ。イエスには、女の苦しみに埋もれた過去の人生がはっきりと見えたのだ。イエスは、女の歩んできた苦しみに埋もれた過去を見て、心の痛みを覚え静かに言った。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(ルカ7.50)と。暗闇の中を生きて来た女はその時、確かな救いを実感した。

 目の前にいる人の姿は誰にでも見ることが出来る。しかし人の背後にある、その人の人生とその中にある苦しみや悲しみを見つめるのは容易なことではない。しかしイエスのまなざしは、いつも人の心の中に注がれていた。それは二千年前も・・・そして今も変わらずに。

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