友でありながら主
カトリック下館教会司祭 本間研二
中学の頃から勉強が苦手だった私はよく先生に居残りを命じられ、放課後の教室で補修をやらされた。級友たちは、そんな私をみて〝がんばって〟と笑いながら教室からでていく。惨めで涙がでた。できるヤツに慰められるほど屈辱的なことはない。高みから降りそそぐ、分かったような励ましに〝できるヤツに、オレの哀しみが分かってたまるか!〟と心の中で叫んだ。・・・あの時に私が欲しかったのは、優秀な誰かの慰めの言葉ではなく、自分と同じ惨めさを背負い、自分と同じ哀しみを知る友だった。
聖書は、イエスは罪のほかは、すべてにおいて人間と等しくなったという。神が輝かしい風格も好ましい容姿もなく、ちっぽけな人間となったのだ。高みにではなく、人間であることのやり切れなさの中に〝イエスは自らの身を置いた〟のだ。だとすれば教室に取り残された私のかたわらに〝イエスは友としていた〟と考えることさえ許されるのだ。
日曜学校に来ている幼い子どもが「ママに叱られて泣いていたとき、イエスさまは私のそばにいてくれたよ!」と嬉しそうに話してくれた。そのとおりだと思う。イエスは天から語るのではなく、そっと私たちのかたわらに寄り添っている。私には見えなくても、その子にはそれが見えたのだ。遠くにではなく最も近い場所で、打ちひしがれている場所で神を見出したのだ。神が人となるとはそういうことだ。もしイエスが悲しむあの子に現れず、高みに鎮座する神だったら、人はどこに慰めを求めればいいだろう。私の気持ちに寄り添ってくれない神に、どうして愚痴をこぼせよう。愚痴もこぼせない相手に、どうして祈りなど捧げられよう。
だがイエスは、ただ愚痴を聞くだけの神ではない。・・・学生時代、よく寂しい者同士が集まって互いの寂しさを紛らわそうと騒いだ。でも騒げば騒ぐほど後から虚しさが込みあげてくる。つまり大切な何かが見えない私の苦しい気持ちは分かってほしいけれど、私と同じように何も見えない人だけでは駄目なのだ。私の傷を共に痛んでほしいけど、ただ痛みあうだけでは何かが足りない。私が必要としたのは、傷をなめあう友ではなく、同じ境遇にありながらも、大切な何かを示してくれる誰かなのだ。
教室に残された私は、高みからの慰めが欲しかったのではない。だからと言って傷をなめあいたかったわけでもない。自分と全く同じ低さに立ち、同じ哀しみを味わいながらも、まったく違う性質の誰かが欲しかったのだ。友でありながら友でない。深みに降りてくるが深みに足をすくわれてもいない。そんな誰かを求めていたのだ。
イエスは確かに私たちと同じ地平に立ち、私たちの弱さに同情してくれると聖書は語る。しかし彼は罪を犯さなかった。つまりイエスは、共感してくれても決して人間のように傷をなめあう方ではない。イエスは私と同じ惨めさを味わいながらも、私を幸いな場所へ導こうと、私の罪をはっきりと指摘する汚れなき主人である。人でありながら、やはり神。私の友でありながら、それでも主なのだ。