一つの命

   カトリック下館教会司祭 本間研二

ミサが終わり司祭館でホッとくつろいでいた日曜日の午後、電話のベルが鳴った。教会から帰って行ったばかりのサチヨからだ。震える声で「子猫が車にひかれたの。誰も助けてくれないの。死んじゃうから来て、早く、早く来て」・・状況を呑み込めないまま車を走らせ現場まで行くと道路の端にしゃがみ込んだサチヨの足元で傷を負った子猫が弱々しく鳴いている。車のバンパーで跳ね飛ばされ身体を強く打ったようだ。一刻も早く獣医さんに診てもらわねばとサチヨと子猫を車に乗せ近くの動物病院へと急ぐ。だが病院は休みでベルを押しても誰も出て来ない。二軒目も三軒目も誰もいない。車の中ではサチヨが子猫の背中をさすりながらオロオロと見守っている。ようやく見つけた病院で事情を話し診てもらった。治療の甲斐があり幸い命は助かりそうだ。しばらくすると薬が効いてきたのか子猫はスヤスヤと眠り始めた。その姿を見たサチヨが安堵からか唇を震わせ涙をポロポロ流しながら泣いている。

サチヨは少しツッパッテいる中学生で、ミサには来るがいつも斜に構えている。男の子とケンカもするし、学校で先生たちからの覚えもそれほど良くはないと聞く。そのサチヨが怪我をした子猫を道路の端まで運び、道行く人に必死に助けを求めたのだ。だが誰も手を貸してはくれなかった。切羽詰まった思いで教会に電話をしたのだろう。

 一匹の子猫のために恥も外聞もなく道行く人に助けを求めた時、不安で孤独で心細かったに違いない。でも震える子猫に寄り添うことをやめなかったサチヨ。命を取り留め安堵のあまり泣き出したサチヨ。そんな姿を聖書の中で見たような気がする。

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 聖書は、一匹の迷える羊を命がけで追い求める「羊飼い」がいることを伝える。その飼い主は、百匹の羊がいても一匹を見失ったとしたら、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回るというのだ。

たった一匹のために危険を冒して探しに行くなんて理に合わないと諭す人がいたに違ない。 でもこの「飼い主」は、はぐれた一匹の命も自分には大切な宝なんだと譲らない。

 私たちが災いに襲われ、絶望の淵で震えおののいていたとしたらどうだろう。迷うことなく聖書は断言する。神にとって大切なのは「命の量」ではなく「一つひとつの命なのだ」と。

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サチヨは、子猫を置き去りにはしなかった。見捨てることなく見守り「一つの命」のために肩を震わせて泣いた。その姿は美しかった。

そして今、道端で震えながら泣いていた子猫は、サチヨという「飼い主」のもとでノンビリと過ごしている。あの猫に何という名前を付けたのか、まだ聞いてはいない。