新しい一歩
●マタイ2・1-12
カトリック下館教会司祭 本間研二
中学生の頃、勉強も生活態度も真面目とはいえなかった私は、よく担任の先生から怒られ、説教をされては数えきれないくらい「反省文」を書かされた。しかし、腹の底から改心していない私は、心のこもらない「反省文」をいくら書かされても変わらなかった。人は「反省文」で簡単には変わるはずもなく、心はすさんでいくばかりだった。
そんなすさんでいた私の心を「出会い」が打ち砕いてくれた。4月にクラス替えとなり新しい担任となった先生は、律法学者やファリサイ派のように私たちの未熟さを指摘し、糾弾するのではなく、よく褒めてくれた。それまでの「失敗したら反省文」という呪縛から解放された私は、知らぬ間に心が軽やかになり、学校へ行くことが喜びとなっていった。私が変わった理由は、紛れもなく担任の先生との出会いだった。私は変わるために何の努力もしなかったし、反省もしなかった。ただ先生と出会う事で「失敗したらまた怒られる」との恐れは薄らぎ、「学校に行ったら、楽しいことが待っている」との喜びを味わうようになった。そのことで私が知ったことは、人間は「反省」で変わるというよりも「出会い」で変わるということ、だった。
学生の頃、確か夏休みの時だったと思うが、何人かの仲間と新宿に飲みに行ったことがあった。縄のれんの居酒屋に看板まで居座り、気が付くと終電の時間はとうに過ぎていた。若さと酒の勢いで寮まで歩こうと言うことになり、皆がとめどなく話し、笑い、寮に着いた頃には空はうっすらと明けていた。残ったのは心地よい疲れと、今でもときどきよみがえる懐かしい思い出。あの時新宿から練馬の寮までの長い道のりをどうして歩き通せたのか。それは私の意思が強かったからではない。ただ仲間とワイワイと話しながら一つの目的地へと向かって行ったら、いつの間にか到着していた。それだけなのだ。
人生も同じことがいえよう。私たちは強いから今の自分があるのか。いや一緒に誰かが歩いてくれたからこそ、気が付いたら今がある。これまでの苦難は自分の力だけで乗り越えて来たのか、いや話を聞いてくれる誰かが側にいてくれたから苦難は過ぎ去っていったのだ。「出会い」が無ければ、今の自分はない。
イエス誕生の時に故郷を出た占星術師たちの旅は、果てしなく長く苦難の連続だったに違いない。どこにも保証のない旅だと引き留める人や、無謀な旅だとあざ笑う人もきっといただろう。しかし彼らは小さな星の輝きに人生を懸け、前へ進んだ。
この旅が一人きりの旅だったならベツレヘムの馬小屋にはたどり着けだろうか。いや語りあい、笑いあい、心をぶつけあえる三人だったからこそ、苦難の旅も気が付けばベツレヘムへとたどり着いたのだ。
彼らが共に歩むことによって主に「出会い」、主に「出会あう」ことによって「別の道が示され、その道を通って、自分たちの国へ帰って行った」(2.12)。つまり、人生の新しい一歩を歩み始めたのだ。
2025年、新しい道は主によってすでに開かれている。